2013年11月29日金曜日

被災地を訪ねて③-南相馬市小高地区、時が止まったまま

 今回、南相馬市を訪ねた理由の一つは「NPO法人南相馬こどものつばさ」の方々にお会いすることでした。

 今年、紋別市に南相馬市の子どもたち14人を招きました。私も実行委員の一人としてお手伝いをさせていただきました。
 
 その縁もあって、そのメンバーである佐藤光さんと小高小学校の飯塚宏校長とお会いすることができ、小高小学校を訪問しました。

   

 小高小学校は、20キロ圏内にあるため全校避難となり、仮設校舎での授業となっています。やっと現在、除染が進み外でも遊べるようになったと言います。

 多くの子どもが避難所での生活を余儀なくされ、様々なストレスを抱えている。紋別の取り組みは本当にありがたい。と、感謝されました。

 さらに飯塚校長は、「3年後には小高地区の除染も終了し、住民の帰還が始まる計画です。もちろん、小高小学校も除染されます。子どもたちも、その時戻ることになります」と語られた言葉に、正直私は複雑な思いのまま、何とも言えませんでした。

 でも、子どもたちは確かに元気に狭い校庭を走り回っていました。

 その後、佐藤さんの案内で被災現場に足を運びました。

 津波にも耐えた「奇跡の一本松」


 そして、「避難指示解除準備地域」の小高地区へ。
 そこで見た光景は、まさに3・11その日のままでした。放射能汚染で人が入れなかったため、手つかずの状態なのです。あの日の津波被害のままなのです。言葉を失いました。ただ、呆然と眺めるだけでした。




 小高駅には、高校生たちの通学のための自転車があの日のまま放置されていました。


 小高小学校、小高商業高校では除染の作業が急ピッチで進んでいました。



 いつ果てるとも知れない作業。無人の街に重機の音だけが響いていました。

被災地を訪ねて②-仮設住宅でボランティア

 19日。まずお邪魔したのは「南相馬市ボランティアセンター」です。そこで、村上勇一所長にお話をうかがいました。

 太平洋に面した南相馬市。地震と津波で1064名の命が奪われました。しかし南相馬市の悲劇はそれだけではありませんでした。

 福島第一原発事故による放射能汚染は、この街をも襲ったのです。

 福島第一原発から20キロ圏内に入る南相馬市小高地区は、放射能の濃度が高いとして「避難指示解除準備地域」に指定され、昼間に限り住民の立ち入りが許されているのみで、帰還できずにいるのです。

 そして、そのほとんどの人が、仮設住宅に入居しています。

 話をうかがった後、「せっかくですので、仮設住宅で開かれている『交流サロン』に参加してみませんか」と誘われ、私もボランティアとして参加することにしました。

 それは、入居者の孤立を防ぐためにボランティアセンターが運営しているもので、私が参加したサロンには7人のお年寄りが参加していました。

 お茶を飲みながらのおしゃべりです。「わざわざ北海道から…」と大いに歓迎されました。

 この日はちょうど、市立病院の先生が見えられての健康講座も開かれました。


 テーマは「骨粗しょう症」。骨粗しょう症を予防する体操なども一緒に行いました。

 次のプログラムは輪投げ大会です。


 遠藤さん夫婦に次いで3位になりました。なかなかみなさん上手です。3位入賞記念に手作りの座布団をいただきました。

 「楽しかったね」「久しぶりに笑ったね」と、口々に話しながら帰っていきました。

 そこにいた遠藤さんはこんなことを話していました。「小高で農家をやっていた。放射能で帰れない。農地を除染するというが、土地の表面をひっくり返す反転耕をするだけだといんだ。とんでもないよ。息子たちは孫を連れて街を出て行った。また一緒に暮らしたいんだが…。でも、この街じゃ無理だ。放射能さえなかったら…」。そのつぶやきは忘れられません。


被災地を訪ねて①-南相馬市「農家民宿いちばん星」

 11月18日から20日まで東日本大震災の被災地である福島県南相馬市と宮城県南三陸町を訪ねてきました。

 言うまでもなく東日本大震災は、大きな衝撃だったとともに、国や地域のあり方、人と人のつながりなど、多くのことを深く考えさせられました。

 この間、議会を通して災害問題や防災対策など幾度も取り上げてきました。

 しかし、私の心の中にはいつも、震災の真の姿と現実をこの目で見なければ本物にはならない、という思いがありました。

 それがやっと実現しました。多くの方のご厚意で、想像していた以上の実り多い訪問となりました。

 多くの人と語り、多くの現場を見てきました。今もまだ心の中は、その時の風景であふれています。

 18日の夜7時、仙台発のバスで南相馬市原ノ町駅前に到着。この日宿泊する「農家民宿いちばん星」のご主人星巌さんが迎えに来てくれていました。

 この「いちばん星」。実は、明日訪問する「南相馬市ボランティアセンター」の方からの紹介でした。「宿泊先を探しているなら、この間ボランティアさんを一生懸命受け入れてきた民宿があるから、そこがいいですよ」と紹介してくれた宿なのです。

 山間に建つ古民家風の民宿です。この日の客は、私一人とあって、食事をしながら星さんと話が進みました。



 その話も壮絶でした。2011年3月11日当時、市の職員だった星さんはある避難所の責任者となりました。そこで数か月必死に取り組んできた星さんに市は、職場に戻るよう指示しました。

 星さんは、まだまだ支援が必要であり、このまま救援活動で頑張りたいと言ったそうです。しかし、そうはならないと知った時、星さんは市職員をやめ、自らボランティアとして、またボランティアの手助けとして、そして被災者の生業の支援のため、「一般社団法人いちばん星、南相馬プロジェクト」を立ち上げ、民宿をはじめたのです。



 地元の野菜をふんだんに使った食事は抜群でした。地元のお酒もおいしくいただきました。 

 奥さんと二人三脚の民宿。そして、希望の農業づくり。その決意と情熱は、こちらもワクワクするほどでした。被災地、一日目にして刺激的な出会いとなりました。
 

 

2013年11月10日日曜日

小児科を守る会-足立講演会

 兵庫県丹波市の丹波新聞記者・足立智和さんの講演会に行ってきました。

 足立記者は、言わずと知れた「兵庫県立柏原病院の小児科を守る会」の活動を支え、紙面で紹介することで地域医療と住民の意識を変える大きな役割をはたしてきた人です。

 


 今回の講演会は、オホーツク圏医療体制整備推進協議会が主催するもので、100人ほどが参加していました。

 なかでも紋別高等看護学院の生徒たちが多数参加し、華やいだ雰囲気も漂う会場です。

 講演で足立記者は、次のように語ります。

 県立柏原病院の小児科の医師が一人になり、その医師も辞めざるを得なくなったとき、ある女性が「夜間救急と翌日の外来で同じ医師に子どもを診てもらった。医師は寝ないで働いている」。

 その言葉をきっかけに、「柏原病院の小児科を守る会」が発足した。

 その基本方針は「子どもを守るお医者さんを守ろう」というもの。そして、小児科医に「ありがとう」のメッセージを届ける取り組みと、コンビニ受診を控える働きかけを行った。

 それが、日頃批判の対象とされてきた日本中の医師の心をうった。やがて、働きやすい環境が整い、今では、8人の小児科の医師が勤務する病院になった、と。

 そして、足立記者は地域医療存続のカギは、「医師に選ばれる地域になること」と述べ、医師不足に苦しむ広域紋別病院について「北海道から移管を受け、自らの手で運営できるようになった今が、良い病院をつくるチャンスだ」と述べました。

 私にとって、足立記者の存在は特別の意味を持っています。

 まだ道立病院の時代、医師はどんどん減り、患者を減らさざるを得ない状況だったとき、これからの医療はどうなるのか、紋別の医療とはどこへ向かうのか、私自身先が見えない時がありました。

 そんな時、たまたまインターネットで丹波新聞の記事、足立記者の記事を目にしたのです。

 それが「柏原病院の小児科を守る会」の取り組み。若いお母さんたちの取り組みだったのです。

 医療の現場、医師の現状を知ること。批判だけでなく、住民も行政も、医療の現場と向き合うこと。そして、地域の医療を守ろうという住民主体の組織をつくること。

 これで私もやるべきことが見えた気がしました。そして、志を同じくする市議と「紋別の地域医療を育て守る会」を発足させました。

 やがて多くの仲間も加わり、シンポジウムや学習会、宣伝活動、広報誌の発行など、地域医療の啓発に少しは役立つ取り組みができたと思っています。
 
 あれから5年。今、「会」の活動は少々停滞していますが、足立記者の言葉通り「今が、良い病院をつくるチャンス」なのかもしれません。

 足立記者の講演を聞きながら、そんな自分の歴史を振り返り、感慨深くもなりました。

 実は話はこれで終わりではありません。講演会の後、足立記者と遅くまで飲み、語り合ったのです。そして、翌日も飛行機の出発時間までお付き合いしました。

 フットワークが軽く、好奇心いっぱいの足立記者。たまたま初雪が降ったその日。「雪だ、雪だ」と大はしゃぎ。そこは新聞記者。早速大山山頂まで足を延ばし、カメラに雪景色を納めました。

 またの再会を約束しました。ぜひ、丹波市にお邪魔て、「小児科を守る会」のメンバーに会ってみたい、そんな思いを強くしています。

 



 

2013年11月7日木曜日

元気に街頭宣伝

 私と北支部のメンバー3人で街頭宣伝を行いました。

 消費税増税反対のプラスターとのぼりを宣伝カーに積み込んで、出発です。

 


 この日は天気も良く、街宣日和。スーパーラッキー前、商店街、バスターミナル前の3か所で行いました。

 「国民の所得が減り続け、景気が後退する中で消費税を増税するのは、日本の経済を一段と危機に陥れるものだ」「秘密保護法は、国民の目、耳、口をふさぎ、民主主義を破壊するだ」

 演説のさなか、うれしいことがありました。

 ご婦人が寄ってきて、激励してくれたのです。それも2か所で。

 「こうやってきちんと政策を訴えているのは素晴らしいと思う。これからもがんばってください」「私たちの味方は共産党しかありません。この前も投票しましたよ」と。

 何かしら市民の期待を感じます。元気と勇気をもらえます。

 反応があるのはやりがいのあるものです。支部のメンバーもうきうきで、一回目の支部主催の街頭宣伝は無事終わりまた。